妥協で選んだ仕事は、乗り換えだった──『灼熱カバディ』に教わった、取れなかった席の意味

深夜の机に置かれた読書灯と漫画の単行本と二枚の古い切符 静の処方箋

希望した席に、座れなかったことがある。

就職活動の頃の話だ。
もうずいぶん前のことで、普段は思い出しもしない。

それを引っ張り出したのは、ある夜に読んでいた漫画だった。
武蔵野創の『灼熱カバディ』。
長く第一線に立ってきた選手が、その場所を離れる場面で、手が止まった。

彼はそれを、終わりとは呼ばなかった。

「乗り換えるだけさ」
(武蔵野創『灼熱カバディ』より)

この先で、今よりいいものが見られるかもしれない。
そんな意味の言葉が続く。

あの頃の俺には、言えなかった言葉だ。

──あの頃の俺は、乗り換えたなんて思っていなかった。負けたと思っていた。

理系の俺が、研究開発の席を取れなかった話

俺は理系の出身だ。
就職活動では、研究職や開発職を目指していた。

深い理由があったわけじゃない。
理系なら、研究開発。
若かった俺は、漠然とそう思っていた。

ただ、同じ席を目指す人間は、いくらでもいた。

選考で、他の学生に勝てなかった。
研究開発職の内定は、最後までもらえなかった。

結局、俺が就いたのは営業という仕事だった。

妥協だった。
正直に言えば、そう思っていた。

理系なのに、営業。
希望した席に座れなかった自分は、負け組なんじゃないか。

──その気持ちを抱えたまま、俺は営業の仕事を始めた。

「乗り換え」と呼べなかった、あの頃の俺

漫画の中の彼も、席を取られた側だった。
後から来た、才能のある人間たちに。

それでも彼は、負けたとは言わなかった。
乗り換える、と言った。

同じ出来事でも、呼び方ひとつで意味が変わる。

降りたと呼べば、そこで終わる。
乗り換えたと呼べば、まだ先がある。

あの頃の俺は、そう呼べなかった。
希望した席に座れなかった時点で、話は終わったと思っていた。

そう呼べるようになったのは、ずっと後のことだ。

──きっかけは、ある日の得意先訪問だった。

研究開発の人間と、同じ得意先に立った日

入社して7、8年が経った頃。
研究開発の担当者と一緒に、得意先を訪問する機会があった。

かつて俺が座りたかった席に、座っている人たちだ。

その日、彼らは得意先に、こう聞いていた。

「使い心地はどうですか」
「使いにくいという声は、ありませんか」
「ここをこう変えたら、どうでしょう」

特別な質問じゃない。
でも、聞いたことを自分たちの製品に活かそうとしているのは、横にいて分かった。

その姿を見ていて、気づいた。

職種は違う。立場も違う。
でも、見ている先は同じだった。
目の前の、困っている人。

研究開発は、より良い製品を作ることで、その人を助ける。
営業は、顔を合わせて、提案して、課題を一緒に解くことで、その人を助ける。

手段が違うだけで、行き先は同じだった。

就活の頃から、それが分かっていたわけじゃない。
あの頃の俺は、困っている人を助けたいなんて考えていなかった。
ただ漠然と、研究開発の席が欲しかっただけだ。

気づいたのは、後からだ。
営業という席に座り続けて、ようやく見えた。

営業の仕事が、良いことばかりだったわけじゃない。
思うようにいかない日のほうが、たぶん多い。

あの日を境に、きっぱり変わったわけでもない。
ただ、あの日から少しずつ、俺の中の「妥協」という言葉は薄くなっていった。

──今なら言える。俺は降りたんじゃない。乗り換えていた。

偶然を、あとから意味に変える

キャリアの世界に、「計画的偶発性理論」という考え方がある。
スタンフォード大学のクランボルツ教授が提唱したものだ。

キャリアは、予期しない出来事に大きく左右される。
だから偶然を避けるのではなく、活かせるようにしておく。
ざっくり言えば、そういう考え方だ。

そのために必要な姿勢が、5つ挙げられている。
好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心。

俺に引っかかったのは「持続性」だった。

希望の席に座れなかったことは、俺にとって予期しない出来事だった。
それを活かそうなんて、当時は考えてもいない。
ただ、座った席で仕事を続けた。

続けていたから、あの日の得意先に立てた。
立てたから、行き先が同じだと気づけた。

勘違いしたくないことがある。
希望の席に座れなければ、必ず好転する。そんな保証はない。
俺の場合はそうだった、というだけだ。

努力すれば報われる、という思い込みについては、以前の記事にも書いた。

ただ、ひとつだけ言えることがある。
あの時に腐って席を立っていたら、乗り換えだったと気づく日は来なかった。

──そしてたぶん、席が取れない日は、これからも来る。

明日、俺がやる3つのこと

希望の席は、いつも取れるわけじゃない。
異動、役割の変更、思っていたのと違う評価。
就活の頃より、今のほうがずっと身近な話だ。

だから、3つだけやっておく。

① 取れなかった席を、ひとつ書き出す

その横に、代わりに座った席で手に入れたものを書く。
並べてみると、降りたのか乗り換えたのかが見えてくる。

② 今の仕事の「行き先」を、一行で書く

手段ではなく、誰の、何のための仕事か。
行き先が言葉になっていれば、席が変わっても迷いにくい。

③ 違う席に座っている人の仕事を、隣で見る

俺は、研究開発の人間の隣に立って、初めて気づいた。
離れて眺めているうちは、違う場所へ向かっているようにしか見えなかった。

まとめ:席が取れなかった日のこと

希望の席が取れなかった日が、キャリアの分岐点になることがある。
思わぬ形で、人生が好転するきっかけになることもある。

だから、次にまた席が取れない日が来ても、
腐らずにいたい、と俺は思っている。

それは終点じゃない。次の乗り換えだ。


同じ夜を戦う、戦友へ

今夜も2冊、置いていきたい。

📖 席を取られても、まだ先があると思いたい人へ
『灼熱カバディ』武蔵野創

熱い漫画だ。
でも俺に残ったのは、去り際の静かな一言だった。

📚 偶然を味方にする考え方を知りたい人へ
『その幸運は偶然ではないんです!』J.D.クランボルツ、A.S.レヴィン

本文で触れた理論を、提唱者本人が一般向けに書いた一冊だ。


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──今夜もまた、どこかで一つ、読書灯が灯る。

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