「検討しておきます」の壁を越えられなかった夜──『冷たい密室と博士たち』から学ぶ「本当の問題を見つける力」

深夜の机に置かれた読書灯と文庫本と虫眼鏡 静の処方箋

「同じようなものは、もう買ったから」
「正直、効果もそこまで期待できないしね」

得意先の決裁者から、何度も聞いた言葉だ。

当時30代前半。
影響力の大きい得意先を任されるようになった頃、
俺はある健康器具の商談で、ずっと足踏みをしていた。

言われた課題には、全部応えたつもりだった。
効果を示すデータも、競合との違いも、揃えて持っていった。

それでも、話は一歩も動かない。

──理由は、あとになって分かった。

相手が口にしていた「断る理由」と、
相手の中にあった「本当の問題」は、
まったくの別物だったんだ。

森博嗣の小説『冷たい密室と博士たち』に、こんな意味の言葉がある。

問題を解くことが人間の能力なんじゃない。
何が問題なのかを発見することが、本当の能力なんだ、と。

この言葉の意味を、俺は痛い商談で思い知った。
その話を書こうと思う。

言われた課題は、全部解いたはずだった

その得意先を任されたのは、30代に入った頃だった。

規模も、影響力も、それまでの担当先とは桁が違う。
ここで結果を出せるかどうかが、今後のキャリアに大きく影響を与える。
そう感じて、通い始めた。

紹介していたのは、ある健康器具だった。

手応えは、正直、悪くなかった。
決裁者は話を聞いてくれるし、課題も口にしてくれる。

「同じようなものは、もう買ったからね」
「正直、効果もそこまで期待できないし」

なるほど、と俺は思った。
問題は「既存品との違い」と「効果への疑問」だ。

だったら、やることは明確だ。

効果を示すデータを揃えた。
実際に使った人の変化も集めた。
既に持っている器具との違いを、一つずつ整理した。

商談のたびに、指摘された課題に答えを持っていく。
課題を聞き出し、解決策を示す。

営業の教科書に書いてあるとおりの動きを、
俺は忠実にやっていた。

質問には全部答えた。
資料も全部揃えた。

なのに──契約の話は、一歩も前に進まなかった。

「うーん、また検討しておくよ」

何度目かの「検討」を聞いた帰り道、
俺は本気で分からなくなっていた。

課題は、全部解いたはずだ。
これ以上、何を解けばいいんだ。

──その問いの立て方自体が、間違っていた。
気づかせてくれたのは、思いがけない相手だった。

本当の問題は、別の場所にあった

転機は、商談の場の外からやってきた。

その得意先に器具を卸している、業者の担当者。
日頃からやり取りのあった人と、偶然ランチを共にした。

商談が動かないことを口にした俺に、
その人は少し声を落として教えてくれた。

「あそこ、昔ちょっとあったんですよ」

聞けば、その得意先は以前、
別の器具で安全面のトラブルを経験していた。

使った人が、怪我をしかけたことがある。
大事にはならなかったが、決裁者はその件をずっと覚えている。

だから新しい器具の話になると、
効果よりも何よりも、まず「安全に使えるのか」を気にする──。

一瞬、言葉が出なかった。

「もう買ったから」
「効果が期待できないから」

あの断り文句は、本当の理由じゃなかった。

本当の問題は、安全性への不安。
でも決裁者は、それを一度も口にしなかった。

考えてみれば、当然かもしれない。
過去のトラブルなんて、外の人間にわざわざ話したい話題じゃない。

だから、当たり障りのない断り文句で包む。
「効果がね」と言っておけば、角も立たない。

俺はその「表向きの課題」を真に受けて、
効果のデータを積み上げ続けていた。

的の外れた矢を、何本も、丁寧に射ち続けていたんだ。

相手が口にする課題が、本当の問題とは限らない。

むしろ、本当の問題ほど、
相手は口にしない。
時には、相手自身も気づいていない。

──それを見つけることこそが能力なんだと、
あの小説の一節が、この時になって効いてきた。

問題は「解く」ものじゃなく、「見つける」ものだった

森博嗣の『冷たい密室と博士たち』。
このミステリィ小説に、忘れられない言葉がある。

大学を舞台にした物語の中で、
ある助教授が、こんな意味のことを言う。

問題を解くことが、人間の能力なんじゃない。
何が問題なのかを発見すること。
それが、人間の本当の能力なんだ、と。

初めて読んだ時は、
研究者らしい理屈だな、くらいに流していた。

でも、あの商談の後で思い出した時、
この言葉はまるで違う顔をしていた。

俺は、問題を「解く」ことばかり鍛えてきた。

課題を聞き出す。
解決策を用意する。
資料を揃えて、質問に答える。

課題解決こそが仕事の腕だと、疑っていなかった。

でも、考えてみてほしい。

相手の口から出てくる課題は、
相手がすでに言葉にできている課題だ。

言葉になっている課題は、
競合も同じように聞き出せる。
過去に誰かが、すでに解きにかかっている。

つまり、顕在化した課題の周りには、
とっくに人だかりができている。

俺があの商談で解き続けていたのは、
まさにその「人だかりの中の課題」だった。

一方で、本当に商談を止めていた問題は、
誰にも見えない場所に沈んでいた。

決裁者の中にある、過去のトラブルの記憶。
本人すら「これが理由だ」と
はっきり言葉にしていなかったかもしれない不安。

誰も見つけていないから、誰も解いていない。
解けば、一人だけ違う場所に立てる。

問題を解く力は、たしかに要る。
でもそれは、正しい問題を見つけた後の話だ。

見つける前に解き始めたら、
どれだけ腕が良くても、外れた的に当たり続けるだけ。

あの頃の俺に足りなかったのは、解く力じゃない。
「本当の問題はどこだ?」と疑う目だった。

答え合わせ──「安全」を語り直した商談

本当の問題が見えたなら、やることは変わる。

次の商談から、俺は提案を組み直した。

効果のデータは、もう主役じゃない。
語るべきは、安全だった。

この器具で、これまで怪我などのトラブルが
起きていないという実績。

導入している他の得意先で、
実際に使っている人たちの声。

「安心して使えている」という口コミを、
一つひとつ集めて、持っていった。

効果を語っていた時、決裁者の反応は薄かった。
でも、安全の話を始めた途端、
明らかに、聞く姿勢が変わった。

質問が増えた。
それも「効果はどうなの」ではなく、
「これは、こういう場合でも大丈夫なの」という質問に。

やっと、本当の商談が始まったんだと思った。

それまでの俺は、ずっと
相手のいない場所で喋っていたのかもしれない。

数回の商談を重ねて、契約は決まった。

動かなかった話が、動いた。
変えたのは、製品でも、価格でも、資料の枚数でもない。

解く問題を、変えただけだ。

──あの契約で俺が学んだのは、
営業のテクニックじゃない。

相手の言葉の奥にある「まだ言葉になっていない問題」を
探しに行く姿勢。

それが、あの助教授の言う
「問題を発見する能力」の、俺なりの答えだった。

明日、「本当の問題」を探しに行くために

じゃあ、明日から何をするか。

「問題発見能力を鍛えよう」で終わらせたら、
それこそ中身のない課題解決だ。

俺がやっているのは、この3つ。
どれも、あの商談の失敗から持ち帰ったものだ。

① 同じ断り文句が2回続いたら、疑う

相手の言葉を疑え、と言いたいわけじゃない。

ただ、同じ理由で2回断られて、
その理由に2回答えても動かないなら、
一度立ち止まった方がいい。

本当の理由なら、答えれば話は動くはずだ。
答えても動かないのは、
そこが本当の問題じゃないサインかもしれない。

「この断り文句は、解決への入口か、それとも迷宮への誘惑か」

そう自分に聞くだけで、次の一手が変わる。

② 商談相手の「外側」に、情報の入口を持つ

本当の問題は、商談の席では出てこないことが多い。

角が立つから。
過去の話だから。
本人も、うまく言葉にできていないから。

だから、席の外に耳を持つ。

現場で実際に使う人。
出入りしている業者の担当者。
別の部署の人。

雑談でいい。立ち話でいい。
「最近どうですか」の一言でいい。

俺の商談を動かした情報も、
応接室じゃなく、定食屋で舞い込んだ。

③ 「まだ言葉になっていない問題」を、1つ想像してから行く

商談や会議の前に、1分だけ考える。

「この人が、口にはしていないけど
本当は気にしていることは何だろう」

立場を想像する。
決裁者なら、何を失うのが一番怖いか。
現場なら、何が増えるのが一番嫌か。

外れてもいい。
前回のハイキュー!!の記事でも書いたけれど、仮説は外れても機能する。

言われた課題に答えるだけの商談と、
言われていない問題を探しながらの商談は、
聞こえてくるものがまるで違う。

まとめ:解く前に、見つける

課題解決の腕は、たしかに武器だ。
俺も、それで戦ってきた。

でも、口に出された課題の周りには人だかりができている。
価値は、まだ誰も言葉にしていない問題の側に沈んでいる。

問題を解く力より、
何が問題かを見つける力。

あの助教授の言葉は、
研究の話であると同時に、
俺たちの商談の、会議の、人生の話だった。

──明日、誰かの「検討しておきます」を聞いたら、
思い出してほしい。

あなたが解いているその課題は、
本当に、相手の問題だろうか。

同じ夜を戦う、戦友へ

今夜も2冊、置いていきたい。

📖 あの助教授の言葉を、物語ごと味わいたい人へ
『冷たい密室と博士たち』森博嗣

理系ミステリィの金字塔、S&Mシリーズの第2作。
謎解きの合間に、仕事観を揺さぶる言葉が不意に飛んでくる。
深夜に少しずつ読むのに、ちょうどいい。

📚 「本当の問題」に届く質問を、明日から使いたい人へ
『質問の魔力』河田真誠

俺があの商談でしていたのは、課題を「聞く」ことだった。
足りなかったのは、本当の問題に届く「よい質問」。
質問だけで課題解決をしてきたプロが、その技術を教えてくれる一冊だ。


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懸命に生きる父・事業主・サラリーマンが、漫画から学んだ「仕事術」や「生き方」を発信している。

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──今夜もまた、どこかで一つ、読書灯が灯る。

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